和本を商うということ
自家目録を初めて発行してみて、自分の未熟さ、甘さを痛感し、今後どうしていくべきか、色々と考えています。
我が梁山泊は従来、社会科学系の古書を扱う専門店でしたが、私は父から事実上の独立以来、和本を扱っていこうと志しています。
それも今となっては気持ち的には揺るぎないものになりつつあるのですが、最初から確固たる方針があったわけでもなく、何か独自のジャンルを切り開きたいという思いと、日清・日露戦争関係の錦絵なら父のやっていたことともわずかながら繋がるのではないか、という思いとで、少しずつ買い始めたのがきっかけでした。
それがあいにく、というか、折しも、というか、時節柄なかなか売れにくい分野だったため、何もわからなくても割りとガッツのみで買うことが出来て、しかも全く売れないわけでもないので、そこから少しずつ色々な物を買い始めたという経緯です。(経緯というほどの年数は経っていない)
私は正直に言って、何の方針も持たない店よりは専門分野を持った店の方が格が上だと思っているので、専門を決めて買い集めるのは当然目指すべき道だと思っています。
しかし、和本というのは業界内でも無闇に敷居が高いものという認識がある様で、和本屋の出でもなく、和本屋の跡継ぎでもない、古典会員でもない、何も知らない人間がそこに飛び込むのはよく言って無謀、悪く言えば馬鹿、と思われるところがあると思います。
私は幸い(?)実際馬鹿なので、そのへんのところに本当に無自覚に足を踏み入れて、我ながら怖いもの知らずなのですが、それが良かったとも思います。
しかしながら、綺麗事ぬきで、どの分野でも専門店として突き詰めるのは並大抵のことではないのであって、ことさら和本だけを切り離して遠ざけるのは違う気がします。
まあ確かにただ読むだけでひと苦労なので、敷居が高いのは間違いないと思いますが、まあそれは洋書も同じと言えるし、ひいては、我々の商売は扱う本をすべて読むことなどありえないのです。残念ながら。売る本はすべて読んでいるという人がいるなら、その人は速読の力と商才の両面を最高レベルで兼ね備えた天才か、本を売ることが生計を立てる本線では無い人でしょう。
(この場合の読むとは一般的な読書として一字一句目を通すことを言っています。扱う本の内容がどういう物かは、やはり全ての物についてわかっているべきだとは思います。)
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ある老舗の方が、和本屋は軽くて値の貼る物を扱って楽でいいな、と思われる、露骨にそう言われることもよくある、という話をされていました。
そういう時、その方は、「いいと思うならやればいいだろう」と相手に向かって言うらしいですが、全くもってその通りだと思います。
私は、いいと思うのでやります。