定家

一誠堂書店さんの110周年の案内を拝見し、驚愕して半ばやる気をなくしかけたのですが、なんでも勉強だと思い直し、内に定家自筆のものが掲載されていたので、藤原定家について調べてみました。

あまりのビッグネームなので、何を今更と思われる向きもおられるかとは思いますが、前回同様、浅学の勉強と備忘の為ゆえお捨て置き下さい。

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藤原定家(ふじわらのさだいえ 応保2―仁治2)
京極殿、京極中納言とも。「ていか」はいわゆる有職読み

千載和歌集編者・藤原俊成の次男として御子左家に生まれ、幼少から父に和歌の手ほどきを受け、16歳で歌合デビュー。

18歳、『愚記』(明月記)を記し始める。
 世上乱逆追討雖満耳不注之
 世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注ぜず
 (世の中に謀反やその征伐が溢れていることは耳に入ってくるが、私はそのことには特に触れない。)
 で始まる日記・記録は73歳まで続いた。

19歳、『初学百首』を記す

20歳、『堀河題百首』を記す

23歳、少将源雅行を脂燭(室内用照明)で殴り官職から追放さる(父の奔走により短期間で許される)

24歳、『二見浦百首』を記す

26歳、父俊成『千載和歌集』を編む。内に8首定家の歌を採用。

31歳、『六百番歌合』藤原良経主催。
それぞれの歌の優劣をめぐって激論が繰り広げられ、顕昭と寂蓮の論戦は独鈷鎌首(とつこかまくび)の争いと呼ばれた。また判者は俊成が務めたが、その評に対し顕昭が『六百番陳情』として反駁文を提出。定家は100首を詠む。

34歳、『韻歌百二十八首』

36歳、『仁和寺宮五十首』

38歳、『院初度百首』により後鳥羽院の寵愛を受け、宮廷歌人となる。

39歳、『新古今和歌集』選者の一人に任命される。

 この間、歌について一歩も譲らない定家と後鳥羽院の関係は徐々に悪化。

54歳、『拾遺愚草』を記す。自撰家集。71歳まで自ら増補・改訂を続ける。

58歳、関係が悪化していた後鳥羽院から謹慎処分、歌会への出入りも禁じられる。

59歳、後鳥羽院承久の乱で敗北。隠岐島に流刑。
   定家、源氏物語など古典を多く筆写する。

71歳、後白河院の名により『新勅撰和歌集』の単独撰にとりかかる。この時期、出家する。

73歳、この歳まで『名月記』を記し続ける。

74歳、『新勅撰和歌集』奏上。後鳥羽院の歌は幕府を慮って除外。

75歳、『小倉山荘百人一首』を選出。

79歳、没。


(京都・相国寺にある定家の墓石。足利義政伊藤若冲と並ぶ。)

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感受性の強い人にありがちですが、定家もやはり気性の激しい人だったらしく、前後を省みず照明で人を殴ったり、取り立ててくれた上皇にも遠慮しなかったり、と、荒っぽいところもあった反面、基本的には終生鬱々とした気持ちを抱えて生きていた人物、との評もある様です。

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先日、定家様と呼ばれる、定家の書体を模したパソコン用フォント、「kazuraki」を購入しました。

「かづらき」は、

 難くとも恋ふとも逢はん道やなき君葛城の峰の白雲

という定家の歌から取ったそうです。
後白河法王の娘(式子内親王)との身分違いの恋について詠んだものとのこと。

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玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

(玉の緒(転じて魂の緒=命)よ、絶えるなら絶えてしまえ
このまま永らえたならば、忍ぶ心が弱ってしまう)

(「忍ぶる恋」式子内親王詠 定家が百人一首に選出)