今そこにある危機

商いは、出(で)と入り(いり)の始末が肝要だ、なんてえことを申しますが…

と、とってつけた様に江戸弁で枕を振りはじめたのは最近H堂さんから志ん朝のCDを大量にお借りしてのべつ聴いているからなのですが、奉公人を何人も抱える様な大店ならいざ知らず、私どもの様なこじんまりとした店舗で商売をしている者は常駐の店番が一人になることがしばしばあります。

そんな時に問題になるのが、いわゆる出と入りの問題でして、と言っても現金の収支の話では無く肉体活動においての出入りのことです。

入りの方、つまり食事については、これは前日や出勤前に用意しておくなりすれば空いた時間にちゃちゃっと済ませればいいのであって、よしんばそうはいかない時であっても、そこは一つじっと我慢の子で閉店を待てばいいのですが、出の方となるとそうはいかない。

尾籠な話で恐縮ながら、出る時は出るのであって、「明日は15時きっかりに手隙になるから用足しはその時に済ませよう」と前日に計画を立てたところで、体の方はそう素直に聞くもんでは無く、「こっちはこっちで気ままにやってるんだから、そう何でも縦割りで決められちゃあ困るよ」とばかりに、事前の告知無しに活動を始めるのだからたまらない。

小店ならびに阪急古書のまち全店は店内に手水場は無く、共用のものが通りの中にあるのですが、先に申し上げた様な一人きりで番をしている時は、一時店を閉めて行かざるを得ないのです。

通常なら用便はお客の途切れた時機を見計らって、「しばらくお待ち下さい」と書いた札を入り口に下げ、大急ぎで行くところを、間の悪いことにそういう時に限って店内には人だかり。

とにかく自然に人が途切れるのを待とうかとも思うけれど、どうもじっくりと本をご覧になるタイプの人ばかりの様で、普段なら一向に構わないものの、そんな時はちょっと一言お詫びして一時店を出てもらおうか本当に迷います。

これはあくまで個の問題なのだから公である店を差し置いて個を優先させるなどということは人道にもとる愚行なのであって社会人としてあるまじき行為だ、などと思う余裕があるのも最初の内だけ、集中力次第で小康を保つ様なこともあるものの、状況は基本的に悪化にしか向かわないもので、「あの人が出て行ったらダッシュで出口へ行って戸締まりをして…」と考えながら脂汗をかきつつ店の鍵を握りしめてタイミングをうかがっていると、そんな時に限って入れ替わりで新規の方のご来店。

「いや来て頂くのはありがたいんですよ、ありがたいんですけどね、こんな時にありがたいことをするなんてあんまりじゃありませんか」とわけのわからないことをわめき散らしそうになりながら、この時ばかりは冷やかしであることを願いつつ腹をさすります。

どうにかこうにか隙を見つけて店を飛び出したはいいものの、我が梁山泊から古書のまち内の最寄りの手洗いまでは約15メートル。

人並みをかきわけてどうにか辿りつくとそんな時に限って決まって使用中。
ならば、とその真上にある第2候補へと階段を駆け上がるものの、またも使用中。
この段になるとすでに体の方は臨戦体制に入っており、手榴弾で言うならピンを抜いて手で押さえている様な状態。
油断しないように気持ちとか色々引き締めながら、いつも花様の外で順番待ちをしている洗練されたカップルやご婦人を尻目に、第3候補であるかっぱ横丁へと階段を駆け下ります。

ジャンカラとマンゲイラの間を入り、串かついっとくの前を走り抜けて嫌な予感がよぎりつつ辿り着いた先は案の定またも使用中。

こうなるとかっぱの最北端の便所しか無い上に、すでに抜き差しならない状態に追い込まれているのでかなり焦っています。

本日はどうにかここが空いていたのですが、飛び込んだ個室は信じられないことに便座部分がビショビショに濡れている。
絶望的な気分になったものの、ことは腹具合の問題だけに文字通り背に腹は代えられぬ、頭にくるやら情けないやら、不幸中の幸いにも最近設置された便座消毒用のアルコールをトイレットペーパーに吹き付けて、尻拭いとはこのことかと思いながら、見ず知らずの人間の後始末をする羽目に。

そんなこんなでどうにか事無きを得たものの、直前使用者のマナーの悪さに腹が立つやら、冷やかしを願ってしまったことを恥じるやら、複雑な気持ちで店へと戻りました。

まあそんな気持ちも水に流してしまいましょう。

お後がよろしいようで。